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「それから、あれだが、今までよう訊かなんだが、――あれは、どうしたもんかの、大石さんの方は?」
房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つていた。
練吉はさつきから一人で喋つていた。
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつていた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つていた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にいてその云ふことを聞き、することを眺めていた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つている房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似ていた。それはたゞ小さくて、皺が寄つているだけだつた。
房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでいるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
いつもはその不器用な容貌の蔭に眠つている不敵さ、だが何か圧迫を加へられると忽ち跳ね起きて来る反撥する房一の気質は、同時に圧迫しようとかゝるものを嗅ぎつける点でも敏感であつた。その敏感さで房一は相沢が一方では彼を賞ほめ上げながら逸早く往診を求めたのはその恩恵と好意によるものだと知らせたがつているのを見抜いた。こんなことになると、房一はふだんよりなほ茫ばうとした眠たげな眼つきになる。その目でちらりと相沢を眺めたのである。動物達の間でよく起る出会つた瞬間に相手の方を見究めようとする、あの本能的なすばやい判断力の点では、房一は生れつき得手だつたが、困苦の暮しの間にそれはなほ鋭く力あるものとして育つた。理性といふよりはむしろ動物的なこの嗅ぎつける力のお蔭で、今房一はたゞ鼠のやうな眼をした小柄な男を見ただけであつた。それで十分であつた。房一は前より落ちついて相沢を気にかけなくなつた。
練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染なじまなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめていた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめていた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられていた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
「お髯がなくなりましたわ」
高等科がすむと、彼は突然、法律を勉強しに東京へ出たいと申出て、父を驚かせた。家中の者の反対にもかゝはらず彼は頑として自分の希望を捨てなかつた。するうち、彼の姿が突然見えなくなつた。二三日して、彼は又帰つて来たので一同は安心したが、その間に彼は上流の城下町にある彼の死母の実家へ行つたのであつた。そこの伯父はその町で瓦焼工場を経営していた。頭の鋭い狷介けんかいな老人で、非常な毒舌家であつた。しかしこの老人は毒舌を一種の愛嬌と他人からは思はれるやうな独特な人柄を持つていて、悪口を言ひながら世話を見てくれる、と人から評判されていた。房一もやはりこの老人に手ひどく罵倒された。百姓はやはり百姓をしろ、と云はれて、房一はすつかり悄気しよげて、その晩はそこで泊めて貰つたが、翌朝になると、一通の手紙を示して、これを持つて町の弁護士の所へ行つてみろ、と云つた。弁護士は手紙を読んで、親切に色々なことを話してくれた。彼もやはり苦学して弁護士の資格をとつた男であつた。その晩、伯父は、苦しくもやる気か、と訊いて、それから外そつぽを向いて、やる気なら餞別に少しばかりの金なら出してやるがその前にもう一度家から承諾を得て来い、と云つた。
右手の台所の方ではしきりと物音がしていた。道平より先に朝早くから手つだひに来ている房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしているのだつた。
「ふむ、さうすると――」
だが、盛子の場合とちがつて、道平のそれはもつと重かつた、そして、もつと直接だつた。これが普通の患者に対するときだと、たゞ聴診器を持つて坐つただけでよかつた。何も考へないで、感じないで済んだ。ところが、道平を診るとなると、この医者らしさがどつかへふつ飛んでしまふのであつた。判断ができないわけではない、だが、判断以上の何かしら得体の知れないものが彼の自信を失はせるのだつた。できることなら、医者としてではなく、単に息子として父親の傍に坐つていたかつた。医者の仕事は誰か他の人に任せてしまひたかつた。