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    「先生お帰りになりましたかね」

    さうだ、あれは見覚えがある。練吉は幼ちいさい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼を磧かはらのまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしている青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞やまひだにうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さうになつた懸命な眼や、多勢に追ひつめられて溝をとび越さうとして思はず泥の中に足をつゝこんだりしたこと、敵方のはやし立てる明るい声や逃げて行く弱い子の背中にぴよんぴよん動く小さな帯の結び目や若葉のきらめき、河魚の手ざはりと匂ひ――それらの記憶が一瞬のうちに現在の房一の胸に生き生きとよみがへつて来た。それは遠くてつかまへられさうもなく、又すぐ傍にあるやうにも感じられた。

    「それをよこしたまへ。二足なんていらんよ」

    不案内なまゝに漠然と店土間の方へ向けて中庭を入つて行つた房一は、右手の塀の内側に一頭の馬がつながれているのを見て思はず足をとめた。一瞥した瞬間場所柄荷馬車馬でもいるのかと思つたのだが、よく見ると、それは鮮かな染色の黄羅紗の掛布の上にぴかぴかする乗馬用の革鞍が置いてあり、おまけに鹿毛の首筋から両脚にかけて汗が黒くしみ出ているところを見ては馬はたつた今さつきまでかなり駆けさせられたものらしい、四脚は軽くひきしまり、下腹部が小気味よく切れ上つて、胸の深いところだけでも、この辺には珍しい良い馬であることが判つた。房一はすぐ、こんな片田舎で誰がかういふ馬を乗り廻しているのだらうかと思つた。陸軍の演習でもなければこんなものが民家につながれていることはなかつた。それとも物好きな旅行者でもあつたのだらうか。

    わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣ともに東京の下町の家族づれで、ほとんど毎日のように色々の物をくれるので、頗すこぶる有難迷惑に感じたことがある。交際好きの人になると、自分の両隣ばかりでなく、他の座敷の客といつの間にか懇意になって、そことも交際しているのがある。温泉場で懇意になったのが縁となって、帰京の後にも交際をつづけ、果はては縁組みをして親類になったなどというのもある。

    「なに、消防演習?」

    「おい、お茶を入れてくれ」

    途中で練吉と別れた房一は、道平の病気のために手の廻りかねていた患家先きへ二三軒立ち寄つているうちに、案外時間を喰つて、帰途についた時はもう暮れ方であつた。

    「はい」

    房一はその玄関土間に足を踏み入れて、

    「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」

    そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。

    あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭に灼やきつけられた。何かしら挑いどむやうな、強したゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つていて誹難することはできなかつた。

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