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    「ジョン、降りろ」

    「訴訟があるさうで、面倒なことですな」

    「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」

    「はゝ、知つているな。よし、よし何もいやしない」

    馬喰達はそつと肱をつゝき合つた。徳次は「鬼倉」といふ言葉を聞いた。そのとき、彼のきよろりとした、酔つた眼の中には、突然いかにも心外さうな、又跳ね上るやうな色が動いた。彼はちよつとぐらりとし、目をつむり、それからぐつと男の方を挑いどむやうに眺めた。馬喰達は小声で、出よう、と云つた。が、徳次はきかなかつた。もう一度大きく上半身をぐらりとさせ、大声で、

    「うん」

    「いや、どうも」

    さう、とりとめもない感慨にふけつていた房一は、ふと、坂路のずつと上の方でごく小さいピカリと光るものを感じた。自転車で誰かが降りて来るのであつた。それはかなりな速さで茂みの間に現れ、又見えなくなり、やがてまつすぐに見通しのきく曲り角のところに、はつきりと大きく現はれた。銀鼠色のかなりにいゝ品らしいソフト帽が見えた。その下に光る眼鏡、面長な白い顔、ペタルの上で、ブレーキを踏んでいるチョコレート色の短靴。――

    だが、そのとき、この野心の塊かたまりのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれていたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。

    それであるから、こういう所へ来て私たちの最も困ったのは、机のないことであった。宿に頼んで何か机をかしてくれというと、大抵の家では迷惑そうな顔をする。やがて女中が運んでくるのは、物置の隅からでも引きずり出して来たような古机で、抽斗ひきだしの毀こわれているのがある、脚の折れかかっているのがあるという始末。読むにも書くにも実に不便不愉快であるが、仕方がないから先ずそれで我慢するのほかはない。したがって、筆や硯にも碌ろくなものはない。それでも型ばかりの硯箱を違い棚に置いてある家はいいが、その都度に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などはない時代である。

    房一は手答へのないのを感じた。

    「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」

    房一は苦笑した。

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