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「あのう、笹井へ往診がございますが」
練吉は永い間黙つていた。それから、いかにもいやいやな調子で、
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついていたのである。もう慣れつこになつている。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
ところが、徳次はぽかんとした表情を浮かべたきりだつた。
診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つていた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
「へえ。ちよつとばかし――」
そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。
「うむ、さうか。玄関のことか」
「ふむ、トンネルのハッパだな」
「ねえ、大変!早く」
「まあ、生れ故郷ですから」