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房一は早くから競馬を見に行つていた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来ていることを教へた。席が混んでいたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいていた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
小谷はやさしみのある顔をぽつと紅らめ、いくらか饒舌になり、それと共によけいきいきいする声で話した。
房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつていた。その急に日向ひなたに出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果いちじゆくの樹がぼつさりと茂つていた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。
「――?」
第四章
その長男、つまり房一の父にあたる人は、幼い時から百姓の子として育てられたわけで、風貌こそまるで一介の農夫であるが、単純で大まかな一種長者の風があつて、その住んでいる地域、つまり対岸の町を除く河場中の尊敬を一身に集めていた。老いと共に彼も先代の容貌に甚だ酷似して来たが、彼には先代のやうな底の逞ましさの感じがなくて、先代よりも凡々としていた。彼の妻はやはり士族の出で、上流の城下町から娶めとつたのであるが、三男二女を生んで死んだ。子供は大きくなつていたが、やはりその城下町から不幸な大工の娘を無造作に後妻に貰ひうけて、この女は肥つた人の好い気質の働き者であつたが、彼は家事一切を彼女に任せて何事もなく和した。
何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついていた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつていた。
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話していた。
「痛むか?」
「獲とれましたか」
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつていた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つていた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にいてその云ふことを聞き、することを眺めていた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つている房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似ていた。それはたゞ小さくて、皺が寄つているだけだつた。