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と、房一は練吉の顔を見て思ひ出したらしく、
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟ひっきょう、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。
「せんせいですか」
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は?いや、字あざはどこでしたかな――ふむ、ふむ」
済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべていた。それは何だか、嫌な仕事をさせられた子供のよくやるやうな表情だつた。突然、盛子は了解した。そして、笑ひ出した。――このいかつい、頑丈な、むくむくした房一の中には、こんなに気の弱い、やさしい、何だか可愛げなものがあるのだつた。それは全く、彼には不似合なものだつた。それだけに、可笑をかしみのある、又親しい――。
「いゝよ、君。帰りたまへ、その方がいゝんだから」
いくらか浮うはつ調子に口の軽くなつた小谷にひきかへ、今夜の練吉は何となく元気がなかつた。細かいながらに絣かすりの目のはつきりした大島の上下揃ひを稍ぞんざいに着こみ、吃り気味に話をする彼には、だらりとした様子と同時に、どこか家風の結果といふやうな一脈の潔癖さが混交していた。
根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。
小谷はしばらく放つていた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
又とぎれた。
「ふむ」
「をかしいから笑つたのだ」
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。